「いじめられる側に問題がある」書き込むたびに救われる醜い者たち_岡谷工業高校いじめ動画投稿問題

岡谷工業高校いじめ動画撮影事件
ttp://personalsite.liuhui-inter.net/aoiryuyu/okayaijimedoga.htm

この話題を扱っている掲示板を閲覧すると
お約束の「いじめられる側にも問題がある」とする書き込みを見かけた。
クソのフンより劣る奴はどこにでもいるものだと辟易する。
書き込みをした者はいじめる(いじめていた)側・傍観者であった
可能性が高いとみた。いじめられ辛い経験をした人間が加害者の擁護にまわる
のは考えにくいからである。
ではなぜ擁護する人間がいるのか?
それは、いじめられっこに原因・問題があると思いたいからである。
当然だろう。いじめられっこに悪い点があれば
傍観していた・いじめていた自分に罪はないと感じることができるからだ。
■見てみぬふり―みんなで責めればこわくない―
いじめる側・いじられる側・傍観者。
世にあふれかえっているのは傍観者だ。
この傍観者が数の暴力となりさらにいじめられた側を追い詰める。
学校で生徒の身分としていじめの現場に居合わせた傍観者は
成長しても心にわだかまりを胸にひめて発散する場を常に求めている。
心が醜いものは「いじめられる方が悪い」論に同調・支持する。
どこまでも卑怯なものはあいまいな態度でネット上でも傍観者をきどる。
「いじめれる側もちょっとは悪いかな~」
「白黒はっきりできる問題ではない」と逃げる。阿呆である。


■賢い選択をした大勢の卑怯者が生き残る
自分が悪いことをしていないと思いたいからこそいじめっ子を
貶めようとする人間が世にあふれかえっている。
しかも、このような人間は自分が卑怯で汚くても
目を逸らしながら生きていけている。
損得を考えて見てみぬふり・傍観者を気取ることができるのだ。
社会を生きていくなかでは賢いと称されるだろう。
そして社会ではそのような「賢い」選択をできる人間が
見た目だけは強者である者に媚へつらう。
いためつけられる側には「おまえが悪い」と機を敏にみて
仕事をし、金を稼いでいる。
いじめを放任し容認し他人を気取った賢い者は大人になる。
ご立派な社会人のふりをしていじめにより心をこわした人に
対して言う「自己責任」「心が弱い」
■いじめれっ子には問題児になって欲しい
いじめられる側を絶対悪とすれば安堵する人間がたくさんいるのだ。
本当はいじめられていた子に土下座し地面で額をかちわってでも悪者になって
欲しいが、それをすると見てみぬ振りをしていた自分を認めることになる。
しかし大丈夫。あんたのような人でなしはたくさんいる。
偉大なる先人たちが数によるごり押しで立派な免罪符をつくってくれた。
「いじめられる方が悪い」
2013.11.22 訂正です。
「本当はいじめっ子に~」を「いじめられていた子に~」
アクセス解析をみると2年前のこの記事がなぜか閲覧数が高いのが判明。
ほぼ2年間重要な部分を間違ったままにしておいてすみませんでした。

「いじめられる側に問題がある」書き込むたびに救われる醜い者たち_岡谷工業高校いじめ動画投稿問題” に対して1件のコメントがあります。

  1. はじめまして。
    勝手にリンクさせてもらってます
    るろうニートと申します。
    激しく同意であります!
    いじめ=悪。いじめられる側に問題がどうこうってのは全く関係ない話であって。世の中には初歩の初歩すら知らない頭の悪い小僧であふれかえっていますね

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