いじめられっ子は一番集団に貢献している人間

いじめの事件が報道されるたび思うこと。
「また、未成年の人格形成に身をなげうった人がでたな」
いじめが起きると、生徒側では加害者であるいじめっ子、それに近い傍観者と
被害者であるいじめられっ子の三タイプに振り分けられてしまう。
一番楽なのは傍観者だ。傍観者側におり、また体面を気にする傍観者は
いじめが激化するとそれとなく言葉で制したりする様子を見せたりする。
行動を少しはするが根っこでは傍観者と同類だ。
基本、いじめが治まるまではほとんどノータッチでいる傍観者が
賢明な者ともいえる。
■加害者のみならず傍観者をも救ういじめられっ子
傍観者が楽なことは述べたが、いじめの観測により
なにが与えられるのか?それは人格形成のための知識・
現場にいあわせた経験だろう。
加害者・被害者・傍観者のうち人数が多いのは傍観者だ。
傍観者はいじめの現場を安全圏から観て糧を得る。
現場に居合わせて八方美人を装い、無関心を決め込んだ
やつらが社会にでれば「いじめは悪い」とのたまう事ができる。
自分は何もしなかったのにである。
しかし、元傍観者は庇護される。「いじめは悪い」との
考えは常識と呼べるものだし、なにより社会を形成している
人間の多くは元傍観者たちだ。だからこそ傍観者も
悪かったのではないか?との問いは受け入れられがたい。
なのに「いじめられるほうにも問題がある」という逆切れ思考が
ウケが良い。
例えば元傍観者が
いじめられた経験を持つ人間に対し
「でも、いじめられるほうにも原因があるんじゃないの?」
と、言葉を放っても許されてしまう。
この言葉を第三者として受ける人間の大半は元いじめ傍観者であるからだ。
さらに「いじめは悪いもの」とようやく認識したがいじめていた
自分を擁護したい元いじめっ子がこの論理を後押しすると止まらない。
■集団統制のためのいじめられっ子
結局のところ、いじめられっ子は人格形成の糧にされるだけである。
集団をまとめる教師の立場からみれば集団をまとめるため機能させるモノでしかない。
集団に鬱積のはけ口として捧げられる生贄である。
見方によれば、いじめられっ子は
一番集団に貢献している人間なのに、集団からの利益を
一切もらえない聖人君子のような人間だ。
いじめを受ける本人としは聖人君子になんて
なりたくなかっただろうけれど。